「ガンマン無頼(66)」

TEXAS ADDIO(伊)「さらばテキサス」、 TEXAS ADIOS(英)「さらばテキサス」劇場公開作品

カテゴリー(Franco Nero)

監督フェルディナンド・ベルディ、脚本フランコ・ロゼッティ、フェルディナンド・ベルディ、撮影エンツィオ・バルボーニ、音楽アントン・アブリル、出演フランコ・ネロ、コレ・キトシュ(アルベルト・デラクア)、ホセ・スワレス、ヒューゴ・ブランコ、エリサ・モンテス、ルイジ・ピステーリ、リビオ・ロレンツォ

「続・荒野の用心棒(66)」「真昼の用心棒(66)」に続いて、立て続けに日本で公開され、撃って撃って撃ちまくるマカロニウエスタンの魅力をダイレクトに伝えたフランコ・ネロ主演三部作の一つ。本作品でネロが演じる役は珍しく保安官。しかし、保安官とはいっても、町の平和を守る正義の人といったイメージはさらさらなく、薄汚れたコートの上からガンベルトを絞め、無精髭をはやした、ジャンゴの系譜を引くアウトローか殺し屋を思わせるいでたちで登場。更に、陰気で思いつめたような表情もこれまでのままだ。マ

カロニウエスタンの大切な要素は目的遂行のための執念にあるが、この作品の主人公はまさに執念の鬼となって父の仇を追い詰めていく。そのしつこさは、仇役のシスコ(ホセ・スアレス)が気の毒になってくるほど。保安官バート(フランコ・ネロ)は幼いころ、父を殺し、母に暴行した、ならず者シスコを、メキシコで逮捕し連行するために保安官の職を辞して旅立つ。一緒に行くことを強く望んだ弟のジム(コレ・キトシュ)を同行してメキシコへ向かった2人を待ち受けていたのは、今や大富豪にのし上がったシスコ一味の様々な妨害であった。そんな妨害をものともせず、バートは見事なガンさばきでシスコの手下たちを次々に片付けていく。

背中に回した手で 発射して敵を倒す。背後の敵の拳銃を蹴り跳ばして前方の敵を倒す。墓を掘ると見せかけて、振り向きざまに連射する、などのこれまでのネロの作品以上に多くの目新しいガンプレイが連続して楽しめる。弟役のコレ・キトシュは「真昼の用心棒」のジョージ・ヒルトンのようにネロと互して敵と渡り合う拳銃の名手という設定ではないため、ガンプレイはまさにネロの独壇場であった。

こうして、宿敵シスコの前に立ったバートとジムだったがここで、バートはシスコからジムの父親は自分であると告白される。シスコはバートに何とか帰ってもらおうと様々な妥協案を出してくる。ここが、狂気を秘めた他のマカロニウエスタンの悪役と違うところ。他作品では善人役を演じることが多いホセ・スアレスは、悪役としての凄みはなく、品のいいおじさんといった風情で、なんとなく同情してしまう。バートにとってみれば、ジムの父親でもあり殺すわけにもいかなくなって、その案で妥協しても良さそうなところだ。しかし、そこは、執念に生きるマカロニウエスタンの主人公、シスコの提示する条件などにはび くともしない。ひたすら目的はシスコを逮捕して連行することのみである。

その結果、シスコ一味と彼に反対する市民グループとの争いに巻き込まれた形になり、乱戦の中でジムは撃たれて死ぬ。守るべき弟を亡くしたバートは怒りの一念でシスコに対決を挑む。シスコの息子であり、バートの弟でもあるジムの亡きがらを前に涙にくれていた2人の瞳が静かに重なり、互いに拳銃とライフルを手にして向かい合う対決シーンはなかなかの迫力。しかし、この戦いもその凄みを比べる限り圧倒的にネロ演じるバートのものだ。思いがけない逆転劇などは設定されておらず、シスコはバートの早撃ちの前にあえなく敗れ去る。

ここのバートのガンプレイもしつこい。一発で止めをささずに、手・足と順になぶり撃ちにしていく。両手・両足を撃ち抜かれ息もたえだえのシスコに向かってバートが投げかける言葉がふるっている。「さあ、テキサスへいくぞ。」バートはこの事態に至ってもまだ、シスコの逮捕・連行を考えていたのである。最初から最後まで、一つの目的のために行動する男の執念と工夫を凝らしたガンプレイの連続というマカロニの売り物がもっとも顕著に表されたマカロニの中のマカロニと言えるだろう。